雨の季節には

 本を読みながらつらつらと


 人間は世界を言葉で埋め尽くさないと生きていけないらしい。
 たとえば森を走っているときに目の前に見える木々ごとに名前がついている。スギとかマツとか。その木1本1本も根とか幹とか葉とか部位ごとに名前がついている。葉っぱ一枚とっても、葉柄とか葉脈とかに分けられている。そんでもってもっと細かく見れば気孔とか道管とか師管とかがあって、細胞にまで行けば葉緑素だの細胞壁だの核だのにまで名前がついている。驚くことにそれを構成する分子にまで名前がついている。
 もしなんかのゲームかパソコンみたいに、モノの名前がポップアップで浮き出るような機能が目に付いていたらそこらじゅうが名前だらけで気持ち悪い。もっとも目の前にも窒素だのホコリだのが浮いていて、それらに原子以下のレベルで名前が付けられているのでもはや何も見えない。
 それ以前に自分の目も角膜やら瞳孔やら、名前で覆われているのでそんな機能をイメージしていたら気が狂うに違いない。
 馬はモノに名前を付けるのかなぁ?ニンジンが出てきたら「今日はニンジンだぜ」って思うのだろうか。そもそも今日とか昨日とかいうことを知覚しているのだろうか。馬になったことがないのでそんなことはわからないから、馬に聞いてみるしかないけど、そういうことをマニアックに考えるのが科学みたい。
 多分人間は臆病なんだ。不安から逃れるために名前を付けてとりあえず安心する。不安から逃げることが人間の本能なら、人間は死から逃げるために生きているということ?? でもあんまりにも齢を重ねていくと死は不安でなくなるらしい。そうなるとモノの名前なんかどうでもよくなるんだろうか。だからヒトは歳を重ねると忘れっぽくなるのかもしれない。
参考図書:からだを読む


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