田舎の生活その14

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まだまだ寒い日は氷点下の朝だけど、川根路にもだんだんと春の兆しが感じられるようになってきた。茶畑で作業する農家の人たちの姿も増えて来た。八十八夜まであと2ヶ月ちょい。
今月は人の死に直面することが多かった。残念なことに、この1ヶ月の間にオリエンテーリングの仲間をアウトドアの事故で4人も失った。そのうちの1つは、僕が朝霧野外活動センターでリスクマネジメント講習を受けている最中に起こった事故であった。それだけにショックは大きかった。
アウトドアで活動する私たちは、常に危険と隣り合わせの活動をしているということをあらためて感じる。こういう事故をできるだけなくさなくては、と思う一方で、その危険は決してなくなることはない、ということも認識しなくちゃいけない。多くの人がそう感じたであろうが、僕もその1人として今後の活動の中で表現していきたい。
そして2月は寒かったからか、お年寄りには厳しい冬だったようで、町のいたるところで毎日のようにお通夜やお葬式の看板が立っていた。僕らがお世話になっている家でもご不幸があったので、少しだけ参列してきた。
僕はおかげさまで幼い頃に祖父母を亡くして以来、お葬式にはあまり縁なくやってきた。しかしそのためにその席の作法というのをほとんど知らない。今回もきっと無礼がいくつもあったと思う。仏式だけではなく、神式やキリスト教式など色々ある。めでたい席ならば笑ってごまかせるが、こういう席ではそうもいかない。これからの社会では、生まれてくる人より死んでいく人のほうが多いのも事実。マナーとして学んでおかないといけない時期に来ている。
僕の無知についてはともかく、この町ではそんな状況もあってか死が身近にあると感じる。不幸があったお宅のおばあちゃんは、数日後にはいつもの調子で近所のおばあちゃんたちと談笑をしている。手伝いに来ていた近所の人たちも、とても悲しい顔をしているというわけではなく、地区の集まりとして淡々と手順を踏んでいる、という感じである。長生きをされた上で亡くなられたからこそではあろうが、しかし死ぬことは特別なことではなく、自然なこととして人々のまわりに存在する。
僕が自然に囲まれた田舎に移った理由の1つはそこにある。僕のこれまで住んでいた街では、お葬式は斎場で行うことが多く、そういう場面を目にすることは少なかった。だから死ぬことがすごく特別なもので、畏れ多いもののような気がしていた。だけどアウトドア活動に身を置くことになった者としては、死を遠ざけて考えていてはいけない、とあるときに思った。
森の中では毎日のように、そして当たり前のこととして、同植物たちの生と死が繰り返されている。それと同じように、その周辺に住む人々にも死を受け入れる文化があるような気がしていた。だからその場所に身を置けば、死を自然のものとして受け入れられるようになるのではないかと思った。それは田舎に住みたいという願望の理由の1つでもあった。
そしてその予感は当たっていたように思う。人間は自然をコントロールしているのか、自然にコントロールされているのか。生命とは何か、魂とは何か。そんなことを考えると頭が痛くなってきてしまう始末。しかしそれは考えるからなのかもしれない。誰にも教わることなく息をするのと同じように、構えずに受け入れるべきものなのかもしれない。
今の僕には、こんな稚拙な表現にしかまとめられないが、自分が死ぬときには、自然と死ねるようになっておく、それが目標の一つ。最後になりましたが、亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
さて、田舎の生活には小さな変化があったのみ。妻が植物をいくつか買って来て、植えたり置いたりした。ブルーベリーの実がなる日が待ち遠しい。水やりが僕の日課。
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